昭和47年12月24日 朝の御理解
中村良一
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神、その人が、このような、いうなら、発言をなさっておられる。もちろん、ここでは、天地金乃神様が、そう言うておられるのである。けれども、それを、伝えられる時の、教祖金光大神のお心というものは、どんなものであったろうか。やはり、自分は生神だなという風に思いになったのであろうか。または、その生神の教祖様が、天地の親神様から、お受けになっておられる、その御神格。生神金光大神。やっぱし私は、神だ、生神だという風には思ってはおられないだろうけれども。私が言うことを聞きゃ、絶対おかげが受けられるという確信をお持ちになっただろうと思うですね。こりゃ、間違いもなく、やはり、教祖金光大神様の御理解下さったお言葉なんです。それを、例えば、天地の親神様が、こう金光大神の心、口を通して、此方金光大神あって、神が世に出たのであると。両方からの、いわば、神からも氏子からも、両方からの恩人じゃと。それを、金光大神自らが、言うておられる。そこにです、いや、私は、やっぱり、神だな、生神だなというような風に思われてはいないです。なんの、私の事が生神であろうぞと。土を掘る、一介の百姓だと、ご自分でも仰っておられる。けれども、私が言うことを聞けばね。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守ってという風に仰っておられるから。ここんところはです。私は、確信を持って、教祖金光大神、その人も確信を持ってお伝えになったのじゃなかろうかと思うですね。これは、私でも、そう思います。
昨夜、お月次祭が終わりましてからでしたが、勝手の方で、みなさん、お茶を頂いて、その方が言っておられますのに、熱心にお参りして来よったけど、まぁいろんな事情で、ぷつっと、お参りが出来なくなった。大変な、経済問題ででございましたけれども。沢山な山を持っておられた。ずいぶん、値打ちがある山だったですけれども。整理される時には、二億何千万かぐらいで、整理なさったんです。今は、五億、六億ぐらいの値打ちがある。その事を言うて、本当に親先生、あの時分にですねぇ、あの方が、親先生の言いなさる通りしときゃ、もう、借金払いが出来たぐらいの事じゃなく、いくらか残っとるとでしたろばってんという意味の事を言うておられます。私も思いますですね。押しやり蹴やりで、とにかく、辛抱しなさい、辛抱しなさいというのが、その方に対する、私は、言い方でしたよ。けれどももう、苦しくなって、もうその、早く山を処置してしまわれて。木材の値上がりで、いわば、二億何千万が、六億近くに、現在なっておる。親先生の言いなさる通りしときなさりゃですねち言うて、えらいその残念がる。
まだ、椛目早々の時代でしたけれども。例えば、ライ病とか梅毒とかち言うてもう、身が、その病気のために腐って行くような病人でもです。私の取次で助かると、神様が仰った。身が腐って行くような病気でも助かる。だから、私は、本当に、私の言うことを聞きなさりゃ助かると、私も確信を持って、まぁお取次させて頂いた。これは、私は思うのですけれどもね。その事だけ、例えば、親先生任せという事ではなくてです。もう全てが親先生任せという信心が出来ておらなければという意味だと思うですね。それは、ただ、色々と、お伺いがあります。
昨日も、あるお医者さんの奥さんですけれども。お参りをして見えた。息子さんが、目が悪いのだけれども、どうも、メガネが合わないのか、目が悪いのか知らんけれど、眼科のお医者に行ったが良いだろうか、なんか、頭の方の検査をするところの方の病院に行ったなら良いだろうか。かかったが良いだろうか、かからんが良いだろうかというようなお伺いでした。それで、私は、それは、先ずね、眼科医にお出でなさい。それで、眼科医が、こういう病院に行きなさいというた時には、こういう病院に行きなさい、というて申しましたら。なんか、ここに参ってきたら、もう病院にはかからんでも、おかげ頂きますよと言われることを期待して参って来とられたといった様な感じですよね。そういう事だけが、お取次を頂いて、出てくる答えじゃない。やはり、ここんところでは、ほんなら、眼科医へ行けと言われたら、眼科医に行き。そこからです、次の、眼科医だけで良いのか、また次の病院に行かねばならんのか。いいや、これは大したこっじゃないから、別にメガネを、メガネ屋に行って調べて貰って、メガネを買や、それで良いですよとになるか。そりゃ分らんけれども、その間に、神様のお働きを頂くのだ、下さるのです。だから、そういう程度の、ほんなら、お伺いもあります。また、本当に、一身上の事といった様な、大変なお伺いもあります。けれども、金光大神の言うことにそむかぬようということは、その事だけではない。もういうならば、生活の全体がです、生活の全体が、金光大神任せという事になっておらなければならないのであり、生活全体が、お取次を頂く、先生任せになっとかなければならないという事なんです。
今日、私は、変わった事を頂いたんですけれども。東京歌舞伎の役者に、浅尾奥山と言う人が居ります。老け役専門の役者です。その事を頂いた。次にはね、田中満恵さん、これはあの、楽の先生ですけれども、が、立派な着物を、もう本当に、見事な着物を着てから、合楽にお参りをして来よりなはる。そして、お初穂を、こうやって持っとりなさる。そのお初穂の内容が、私が、すかして見える訳です。中に百円入るっとる。立派な着物を着た人が、立派な衣奨を着けた人が、お参りをしてきておる。そして、どういうお願を、どういうおかげを頂こうかと思うかと、田中満恵である。田の中に、満るほどしのおかげを頂きたい。という意味だと、私は思うたんです。いうならば、一反から十俵しか取れんものならば、十一俵でも、十二俵でも、とにかく、田一杯の満るほどしのおかげを頂きたいという願いを持ちながら。実際は、そうして、立派な着物でも、それこそ、何十万するだろうかという感じの着物を着ておるだけの実力というか、を持ちながら。そして、どうぞお願致しますという時には、私が見えるのは、お初穂袋を持っとられる中に、百円が一枚入っておるという事。
次にはね、ままよと思えば、色気はなくなるという事を頂いた。これも私は、意味が良く分からないけれど。これは、止むにやまれん、どうにも出来ない、人間の欲望だとこう思うんです。浅尾奥山というのも、何かそう、浅い信心ね、何というでしょうか。いろは四十八文字の最後のところに、おくやまけふこえてあさきゆめみしえひもせす、と言うところがありますね。奥山と言うことは、大変な山、大変な修行だと。もう本当に、一生が、大変な、いわゆる、苦労の中に一生を終ると。夢や希望を持たない訳ではなかったろうけれども。それは、いわば、はかないと言うか、浅い夢であったと。この世は苦の世だ苦の世界だとせずに、この世をです、例えば、そういう難儀の修行をさせて貰う時に、苦労させて貰う時に、修行として頂くと言うか、もうそれこそ、浅き夢ではない。それこそ有難い勿体ないのおかげになっておったであろうけれどもです。ただ、苦しい事だけ多かったという様な一生で終わる人が、どの位多いか分からない。それでいて、ほんなら、私どもはです。いわゆる、田中満恵であって、ほんなら、信心させて頂いても、いうならば、少しばかりの修行で、大きくおかげを受けようという様な、浅はかな考え方ではです、おかげにならん。これはまぁだ、信心が足りんのだと思うてと仰るように。まぁそこは、お初穂の事で言ってありますから。百円のものは千円、千円のものは万円。出来なければ仕方がない。けれども、その着物の、いうなら衣奨の様子からみてです。
信心もね、(あんまりはええ)けども頂かんならば、それを、私は、熊本の上野さんじゃないですけれどね。十日に一遍が七日に一遍になり、七日に一遍が五日に一遍になり、五日に一遍が、三日になり。しかも、往復八時間もの時間をかけて参ってくる。それでも、一日の御用は、十分させて頂いて、夕方から参ってくる。もう、ここへ着くのは夜の十時頃になる。さしもの、例えば、親先生の病気がです。もう、お参りをするたんべんにおかげを頂く。十日に一遍が七日に一遍になる、時には、お供えの方もそうであった。超特級のお神酒を持ってお参りするが、初めの日は二本、次の日は五本、次の日は七本、次の日は十二本という様に、段々、多くなって行く。そうしてです、私は、おかげが頂けんならばです。そら、ほんなら、もっともっと、その気持ちになれという事ですけれども。それでおかげが受けられんならば、可笑しいですけれども。そうすればするほど、おかげになってくるという事実。皆さんの信心がです、百円の信心でおかげを頂いておれば結構。けれども、おかげ頂かんなら、二百円にしてみる必要がある、三百円にしてみる必要がある。形の上においても、十日に一遍なら七日に一遍、七日に一遍ならば五日に一遍という様にです。私は、教祖様は、そういう風に信心を教えておられると思うです。これは、ほんなら、金銭とか、お参りとかいうだけの事ではありません。いよいよ、信心の、いうならば、奥牙へ奥牙へと進ませて貰うという信心を、そういう、私は生き方を取らせて貰う。そして、金光大神の言われることを忠実に守って行く。最近、自分ひとりでおかげ頂けんなら、家内にも頼みなさい。夫婦二人の信心で足らんなら、子供にも頼みなさい。それでもいかんごたるなら、番頭さんにでも、女中さんにでも頼みなさいと。という、その力を合わせての、いわば、信心に進んで行かなければならんと、最近教えられる。
以前、私の、これは、流儀でしたけれども。お導きという事を言わなかったですね。もう大体、お導きという事は、どの先生でも、口を開けば言われる。神様が、一番喜ばれるのは、人のお供えだ、お導きをすることだと。だから、お導きをお導きという事を言われるけれども。私は、こら皆さんに、二十年間、お導きという事、導きなさいとは言わなかった。それは、私自身の力を、自分で知ってるから。自分が百軒しか持てんのに、百人分の力しか持たんのに、増えたら、誰かがおかげを落とさんならん。ですから、こちらが力を頂いておる圏内、範囲内でなからなければ、確信を持ってお取次が出来ないというのが、私の信条でしたけれども。最近は、お導きという言葉こそ使いませんけれども。もうとにかく頼みなさいと。主人が信心が無いなら主人に頼みなさい。子供が信心が無いなら、子供に頼みなさい。ちょっと、後押しをして貰うだけで、持てるかも知れん、動くかも知れんのだから、と言うて、頼みなさいと。という事は、私は、やはり、お導きだと。なぜかと言うと、頼むという事は、自分ひとりのためでは、頼まれるその人自身も、やはり、おかげを受けなければならんからと御理解に頂いている。お導きをすりゃ自分が助かる。人を助けりゃわれ助かると言うけれども。なるほど、その事によって、自分も助からなければならないけれども、導かれた、その人自身も助からなければならんのんだから。だから、ある場合には、強引にでも、頼んででも、引っ張ってでも参ってこなけりゃならないと言う様な事を、この頃、私が申しますよね。
あの、ラジオから、大きなテレビに変わったお知らせを頂いたり。まぁ事実、ほんならば、合楽のお広前が、今が百畳あると致しますか。それが、会館を、こうやって、障子を取ってしまうと、二百畳以上になりましょう。それだけの、いうならば、受けものを頂いたです、合楽教会は。それだけの、いうなら、力を頂いたんです。だから、大祭ともなりゃ、ほんなら、この全館が、埋まるほどしになる所までは、まだ私の力だなと、私が思うても良い訳でしょうが。ですから、ほんなら、私が、最近、口を開けば、今の合楽で言われておる、五つの願いと言う事を、繰り返し繰り返し、これだけは、私の言うことを聞いて下されば、おかげになると確信するからです。それを、お互いが、どれ程、親先生の言うことを聞いておるだろうかという事なんです。金光大神の言うことをと、金光大神自身がね、俺は生神ぞといった様な事ではあるまい。けれども、神様が、こう仰って下さるのだからです。私の言うことを聞きゃ、おかげが受けられると確信を持って仰ったに違いない。今の合楽で、これだけは、確信を持って言えれることは。いわゆる、一人で足らんなら二人、二人で足らんなら三人、百円で行かんなら二百円、二百円で行かんなら三百円と言う生き方でです。しかも、この願いを、繰り返し繰り返させて頂くならば、これは人間の、誰ぢもが願うところの、持っておるところの、健康でありたい、家庭が円満でありたい。いよいよ、子孫繁盛家繁盛のおかげが頂きたいと言う、切実な願い。しかも、その切実な願いと言うものは、天地金乃神の願いでもあるのだから。これは、我情我欲のためのものではない。私は、そういう様なです。いうならば、お取次を受けさせて頂いておる時に、そのところを、みなさんが、推慮して、私が頼んでおる事に頼まれて、立たせて貰うと言う信心にならせて頂けばです。大坪総一郎の言うことにそむかぬよう、良く守って信心すればです。これは、まさかの時だけではない、お互いの願いとしておる、いうなら、五つの願いと言うものが成就して行く事になる。
いかに信心しておるというてもです。田中満恵さんの、例えば、百円のお初穂という様な事がです。一生続いたところでです。それは、私は、浅尾奥山だとこう思うです。浅いでしょう信心が。そして、奥山、大変な、やはり一生が苦労であったという事に終わってしまう様な事ではつまらない。あさきゆめみしえひもせす、とうとう、えひもせすが、会いもせず。本当のおかげに会いも切らずにという事なんです。だから、本当のおかげの頂けれる所までです。押して押して押し上げて行くということの、一つの焦点というものがです、最近、合楽の場合は、五つの願いにかけられておる訳です。しかも、それを持って、真の信心だと、私は申しております。真の信心を、本気でさせて貰うて、神様が、本気で下さろうとしておるところのおかげをね。神様が、本気で下さろうとしておるおかげを、私どもが頂くためには、やはり、私共も、本気にならなければならないということ。
これで良いということはない。おかげの頂けれる所まで、信心は、一段一段、高めて行かなければならない、全ての点に。いわゆる、おかげと、いうならば、バランスのとれたおかげを頂くために。願っておかげが受けられんならば、願いの方が重いのだ。だから、信心の方も、それだけの信心をさせて貰うという姿勢を取らせて頂いて。そして、しかもそれは、突飛な事ではなくて、まず、手元の事から、足元の事から。毎日お参りが、よし出来んならばです。いわゆる、日参り的信心をしなさい。家の御神前で拝みなさい。家の御神前の前にお賽銭箱をしつらえなさい。毎朝お参りが出来んのだから、ちゃっと、お初穂だけは、きちっと奉らせて頂いて、御祈念をさせて貰いなさい。私は、近かなら、毎日参るばってんち言うでしょうが、みんなが。だから、参るからにはお賽銭もいりゃお初穂も要るのですから、それが出来ん筈はないじゃないですか。決して難しい事じゃない。本当に、おかげを頂かせて頂かなければんらん為にです。いうなら、浅い信心で、大きなおかげを頂こうと。少しばかりの苦労で、大きなおかげを頂こうと。それではね、いつまでたっても、本当のおかげは頂かれません。いや、本当のおかげというより、昨日からも申します様にね。本当に、自分が神に向かっておると言う。楽しい一生が導きにならんのです。向かえば向かうほど、力を入れれば入れるほど、それ方あるところの、おかげも頂いて行くこと。そして、そこに教ええを行じて行く事の楽しさとか、有難さというものが、着いてくる。我々の一生が、みな、神になる、尊い道行であるという事がです。味あわれるような信心とは、金光大神の言うことにそむかぬようにという生き方を身につけさせて頂くことだと思う。
ここで、親先生任せという、親先生が言わっしゃる通りという信心を、みんな、やはり、身につけて行きよりなさいますけれどもです。いよいよの時には、そうでしょうけれども。細かいところに任せてきておる。言うことを聞きよらん。すぐ出来るような事を実行しよらん。もう、合楽の信奉者としてなら、当たり前の事が、当たり前に出来ていないという、そこをです。私共は、もう一遍、反省してみて、おかげの頂けれるおかげを頂きたい。
ままよと思えば色気はなくなるということは、意味の深いことだと思うんですけれどもね。その奥に、おかげがある。これは、久留米の三橋先生が頂いております御理解に、ままよとぞ思う心の奥に、おかげがあるという意味の歌を頂いております。その向こうに、おかげはあるのだと。勿論、ままよと思うこと自体が、実は難しい事です。本気で修行が出来ておる時でなからなければ出来んのですけれどもです。何時も、そういうような、ままよというのは、いつも白紙の状態でおれれる様な心境をね開かせて頂きたいと思う。
今日、私、金光大神ご自身が、自分の事を此方と言っておられる。此方金光大神あって、神が世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、いうなら、私だぞという風に言っておられる訳です。と言うて、なるほど、私といった様なものやら、神としてのものやら、そういうものはおありにならなかった。正しい。私は、神様から、お伝えを頂く、そのお伝えを、みなさんが、聞いて下さるならばです。おかげが頂けるという、その、確信の事を、教祖ご自身が、ここで仰っておられることだと思うです。私も、探りを入れるような、ね。どうしておかげを頂かれんじゃろうか。ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、探りを入れるようなものではなくて、最近、ここで言われておる、五つの願いというものは、私自身、確信を持って、いうならば、言うておる事です。このところが、一つ、本気で、出来る様なおかげをね。願わなければいけないと思うですね。どうぞ。